社会の独房から

映画やゲーム、小話など。

京アニ放火事件のニュースに、なぜこれほど心を締め付けるんだろう

7月18日の午前、私はいつものように仕事をサボりながらツイッターを見ているとあるニュースが流れ込んできた。

京都にあるアニメーション会社で火事が起きたというモノだ。

ただ、正直最初は舐めていたというか、ただの小火騒ぎという感じで私もここからどう面白い大喜利をしようか、ヤマカンだなとか色々考えていると続いてそれが自然発火ではなく、放火だというニュースを見ておや?と思う。その後、その火事現場の動画が流れてきて、その悲惨さにようやく気づく。

それはあまりにも地獄であり、救いのなさを知る。

私は自分自身の想像力があまりにも足りていなかったと痛感した。

何か起きると取り敢えず茶化したり、上手い事言おうとする事が癖になっていた自分を恥じた。どうしようもなく重くて暗いモノが私を支配していた。

そしてそこから多くの人が生死不明だというニュースがとうとう死者が出たというニュースなどあまりにもショッキングな事の連続で目眩がするものの目の前にある仕事を必要以上にサボる訳にもいかず、モヤモヤしたまま集中力が欠けながらも目の前の事を必死にやった。

そして、仕事が終わり、帰宅の途中、涙が出てきて止まらなくなったしまった。

どうしようもなく涙が出てきた。

 

日常的に人は死ぬし、ニュースには連日、多くの死を放送している。

私は、感情的では別にないので、そんなニュースを観ても悲しくなることはあってもどこか他人事というか、自分には関係のない事と割り切っているし、または心の何処かでちょっとした暇つぶし、ワクワク感があったことは否定出来ない。最低な人間なのである。

でも、どうしてこんなにも京アニ放火事件のニュースが心を締め付けるんだろう。

決して怒りや憎しみなどで燃え上がっている訳ではない。ただただ、巨大なマイナスの感情に身体中が覆われ、どうしようもない無気力なシンドサがある。

私は別に京都アニメーションに関係者なんていないし、アニメも『ハルヒ』や『けいおん』『氷菓』などは観ていたが、最近のは観ていない。

でも、それでも。

恐らく、そんな昔に観た『ハルヒ』や『けいおん』が私の一種の血肉になっているからなんだと考える。

昔観たアニメとの思い出、内容自体はそんなに覚えていなくても、その体験自体は私の意思を離れて、私の体中を駆け巡り、私の一部になっているのだ。

そう、私と京都アニメーションは無関係なんかじゃない。一方的だが関係おおアリなのだ。大切な私の一部なのだ。

そして今回、そんな私の形成した大切なモノを創り出してくれている人達が死んだとのニュース。私はその方々の名前すらしらないが、それでも私は苦しくなる。

今回の事件、簡単に切り替えなんて出来ないし、これからもそうだ。

今回の事件、京アニだからではなく、ここ最近の最大の死傷者がでた事件だから注目されていると言っている人がいる。確かにそれは正論だが、少なくとも私は京アニの人達だからこそ余計に悲しい。

この世のあらゆる命は平等だが、同時に個人の大切な存在の喪失による痛みと文化的喪失による痛み、それぞれは対立せず、矛盾せず、両立する感情だと思う。

 

京都アニメーションの素晴らしいアニメを忘れる事なんてないし、これからも多くの素晴らしいアニメを創ってくれる事を祈るだけだ。今の私には祈る事としかできない。

 

気分を紛らわす為にゲームしたり、アニメとかバラエティを見ると、普段当たり前の様に受容しているしている娯楽が、その楽しさが、全然当たり前ではなく多くのクリエイターの方々の努力と情熱によって作られていると実感する。

今でもニューズは更新し続け、先ほど観ると死者が33人になったと書いてあった。

私はどうしようもない気持ちになり、まとまりもないままに今回の事を書いたが、気分は少し落ち着いた。

現実はどうしようもない理不尽に包まれており、日々絶望する事の連続だけれども、そんな私を支えてくれるのはアニメや映画、ゲームなど娯楽だという事は疑いの余地がない。

だから、そんな私の命を救い続けてくれている全てのクリエイターの方々に感謝の想いを改めに感じつつ、偶になんだこのクソゲー、とか悪口言ったりする事もあるが、お金払っているし無礼講と言うことで今回の最後とする。

くるしい。息が詰まる。なんでこんな悲しいことが起こってしまうんだ。ただただ涙が出てくる。せめて、一人でも多くの人が助かりますように。無事でありますように。苦しいけれども、祈ることしかできない。

 

目が覚めるとこんな酷い事件なんて夢だったという事に淡い期待をしつつ、今から寝ようと思う。おやすみなさい