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『映画 スター☆トゥインクルプリキュア 星のうたに想いをこめて』感想。

星は歌う、という事をあなたはご存知だろうか。

 わかりやすく言うと、恒星は恐らく、歌います。しかし、音は宇宙に伝播することができないので、誰もそれを聴くことはできません(この「音」は10億ヘルツ以上の周波数で、人間の耳では聞こえないのだ)

 『映画 スター☆トゥインクルプリキュア 星のうたに想いをこめて』はそんな星と人という途方もないスケールでの「対話と相互理解」がテーマにあり、70分とは思えない密度でのSF、子供の成長とジュブナイル、冒険ロマン……そして何よりもエンタメ。様々なジャンルの精髄を最高レベルで混ぜ合わせた恐るべき作品に成り立っていて、鑑賞後の満足度が凄い本作の感想をネタバレありで書いていきたい。

『映画スター☆トゥインクルプリキュア ~星のうたに想いをこめて~』主題歌シングル(CD+DVD)

 

「対話と相互理解」

この映画では星奈ひかる(キュアスター)と羽衣ララ(キュアミルキー)を中心に話が展開され、プリキュアの元に突然現れた謎の未確認動物・ユーマとの交流の物語である。

 

ひかるとララ。

ひかるはテンション高いアホなキラヤバ人間にみえて、その実学校や地域社会、家庭で様々な自分を使い分け、相手の気持ちを誰よりも早く深く慮る姿は、TVシリーズでもしっかり描かれており、「元気いっぱいで一直線だけど、勉強は出来なくて支えたくなるピンクのリーダー」という類型を踏まえつつ、そこから少しはみ出した知性のありかた、幼さの中にある確かな成熟さがある。

そんな彼女は映画でも、ユーマという未知な存在に対しての拒絶反応はまるでなく抑えきれない好奇心の中できちんと実験検証し、それに意志があると判ったあとは怯えずコミュニケーションに踏み出し、暴力で物事を動かしそうになった時は体を張って「それはダメだよ!」と教える事も出来る。

 

一方、地球とは違いサマーン星の社会制度により、子供時代を十分体験できないまま13歳で「大人」になってしまったララ。

そんなララは言葉も通じず、自分を抑えることを知らないユーマと出会い、何をして欲しいか分からない、言ってることが伝わらない苛立ちをぶつけて、ユーマの怯えた表情を見た時に、ララは感情を爆発させる危うさを学ぶ。
「世の中にはひかるみたいな人ばっかじゃない。悪い人だっていっぱいいる!」という台詞、一方的にララを未成熟な存在にしていなくて良いですね。
これはサマーン星で「大人」として扱われ、宇宙調査員として働いていたからこそ学ぶことが出来た世知であり、実際に後半では宇宙ハンターが欲望むき出しで襲ってくる事になる。
そういうシビアな現実感覚は、まだまだ社会的には子供のひかるにはないモノである。

しかし、彼女はユーマとの接し方がわからない。
それでも、ひかるがどのように向き合っていたかを思い出して、手を、触手を繋ぎ、歌を通じてわかり合っていける。
『世界は怖いモノだけでなく、楽しいこと、美しいモノがたくさんあるんだよ』とユーマに伝えることが出来る。

そうしてララとユーマは衝突しながらも、美しい景色を一緒に駆け抜けていくことで、新しい自分、知らなかった感情を覚えながらユーマとも仲良くなっていった。

 

ひかるとララ。

生まれた星も育った環境も、培った人格も全然違い、でもお互い大好きで、MUGENに楽しい時間を共有できる。
時々憎まれ口なんかも叩いたり、喧嘩もするけど『家がなくなったのでお泊りさせてください』ってなっても、笑顔で迎えてくれる。
そんな二人が凄く不思議でワクワクするモノに出会って、片方が好奇心が抑えきれず無茶苦茶前のめりなり、もう一方は少し引いた立場である関係のアンバランス性と、そこが均一じゃなくても親友でいられる公平性の描写が、凄く真摯で、やはりスタプリはどれだけプリキュアが増えようともこの二人がメインだなと確信出来る。

 

ユーマの能力を使い、少女二人と珍獣は沖縄、ウユニ塩湖やナスカの地上絵、Gガンダムでお馴染みギアナ高知など地球の絶景を駆け抜け、色んな体験を重ねていく。
人の形をしていなくても、言葉で通じ合うことが出来なくても、ひかるが今までに蓄えた絶景知識を活かしてユーマの力(何処へでも行けるというのはユーマの力でなくても全ての人が実は持っているモノ)で色んな場所に飛んで、楽しく走り抜ける事ができる。

旅行の最後、砂浜で星を見上げながら、ユーマにひかるが歌を歌ってあげるシーン。あれはひかるにとって『お母さんが昔歌ってくれたなぁ……』という子供の頃に母親に歌ってもらったかけがえのない思い出であり、子供だからこそ獲得する事が出来た宝物である。
ひかるはきらヤバな頭に見えて、そういう母親から歌ってもらった経験があるからこそ宇宙を想って空を見上げる物言わぬ子供に、母と同じように歌を届けることも出来る。
それはサマーン星では十分に子供でいられなかったララにとっても、初めて聞く歌であり、ひかるが『子供が聞きたがってたら、歌ってあげると良いよ』と示してあげたことで、最後の惑星決戦でララが歌えたという継承であり伏線であるこのシーンが本当に美しい。

 

ひかるとララ。

映画に限らず、スタプリ通してそうなのだが、ひかるのおかげであらゆる事がポジティブな作品になっている。

宇宙などの未知なる事も、子供への接し方も、ほぼ全ての事に対して好奇心旺盛のひかるにとってそれらは恐怖の対象ではなく楽しいモノとして描かれている。
反対に「大人」であるララは最初にあるのが恐怖と警戒であり、それでもユーマの不思議な力に興奮するひかるが本当に楽しそうだから「私も!」って前のめりになる。
この興味が湧く瞬間って、プリキュアだろうが普通の子供だろうが、男だろうが女だろうが、大人であっても全ての人が「ある」一瞬だと思う。
そういう「前のめり」に一緒になり、最高な友達と過ごす時間、手を繋いで知らないワクワクに飛び込んでいくかけがえのない体験こそ青春と言える。
宇宙スケールのとんでもない規模の話なんだけど、こういう普遍的な『あ、ここ好き』と思える瞬間瞬間がある映画だ。

 

今回の敵である宇宙ハンターはかなり特殊で、別にプリキュアと対話することもなく、説得などのシーンも特になく、我欲に従って暴れ、改心することもなく逮捕される。
そういう救えない「悪」は世界に確かに存在していて、今回の映画は彼らとではなく、彼らの悪意に影響を受けたユーマと対話することになる。

そんな宇宙ハンターを倒したプリキュアだったが、ユーマは星の子供だという事を知り、別れないといけないと告げられる。

ララは激しく反発する。誰だって友達と別れたくはない。その一瞬の隙をつき、宇宙ハンターはユーマを攫ってしまう。

そしてそんな宇宙ハンターの悪意に影響を受けて、ユーマは地球を飲み込む暗黒惑星へと変化していく。

ここでララは自分の身勝手さがユーマを歪めてしまったと、自責の念に駆られまう。

観客はララが悪くない事なんて知っている。それでも本人は後悔してしまう。

観客も固唾を飲む中、助けに来る星奈ひかる。彼女はいつものように、余りにも正しくどこまでも優しい言葉でしっかりと自分の気持とララの気持ち、ユーマの気持ちを言葉にしてくれた。

ララは大切なのは自分の気持ちだけでなく、相手がどうなのか、考えてあげるイマジネーションだと気づく。そう、何よりも大切なのはイマジネーション。スタプリの根源でもあるイマジネーションは自分にだけに使うのではない、相手の気持ち、感情をイマジネーションすることも大事なのである。

 

ひかるとララ。

別にひかるがユーマとの別れを悲しくない訳ではない。それでも地球人と星の子供。それぞれ別々の存在であり、別々の故郷があり願いや夢がある。
それでも、例え別れても心は繋がれるからこそ、お互いの本当に大事なものを尊重して、夢が叶うように、楽しく笑えるように、手を差し伸べ、応援し、あるいは手を離して笑顔で「またね」と別れる事が大事なのだと彼女は知っている。

そしてひかるはララが自責の念に落ちそうになった時、勇気と知恵とイマジネーションを振り絞り、自分の中の真実を探って、相手に届く言葉を届く場所から必死に掴む。
これはララとユーマが喧嘩した時、ララがひかるのことを思い出しながら、ユーマに仲直りした時と同じ行動なのだ。
例え近くにいなくても、お互いの存在が自分独りだけだと同じ所で踏みとどまってしまう決断をぶち壊し、前に進める。
そういう関係が、ひかるとララの間に成立している。

ララもそんなひかるの言葉でようやく自分の中の闇に勝ち、ユーマの為に立ち上がる。

 

そして最終決戦。

ひかるとララは「敵を倒すため」ではなく「ユーマを救うため」プリキュアに変身する。

宇宙ハンターの悪意に染められて、ユーマの星は恐怖と暴力で満ちている。
荒れ狂う稲妻と、深く黒い海に沈められながら、少女たちは己の無力さに噛み締めながらも、それでも歌い、繋がれた日々のことを思い出す。

 

ユーマがかつて求め、ひかるとララが歌い、まどかがプレゼントしたオルゴールが星の核となって、星の子供が囚われた恐怖と憎悪の暗闇から光(プリキュア)が出てくる演出は、本当に本当に素晴らしかった。

そして始まる奇跡のような時間。

それまでイマイチ使うところがわからず子供達も持て余していた「ミラクルライト」

この「ミラクルナイト」はプリキュア映画では伝統で、ピンチになったプリキュアに子どもたちがライトを光らせて応援すると、その想いがプリキュアに伝わり、ピンチから脱出、大逆転への布石になる。という子供が映画に直接関われるシロモノだ。

しかし、ここで使う「ミラクルナイト」は子ども達がプリキュアを応援するためにライトを使うのではない。プリキュアと一緒に「星」を創り上げるためにミラクルライトを振る。まるでアイドルのライブでペンライトを振るオタクのように、スクリーンの前の子ども達はプリキュアに力を託すのではなく、プリキュアと一緒に「星」を創る為に「ミラクルナイト」を思い思いの動きで振るのだ。

2018年「映画HUGっと!プリキュアふたりはプリキュアオールスターズメモリーズ」(個人的に2018年で一番好きな映画)では、「観客それぞれの思い出がプリキュアを救う」という「ミラクルナイト」の使い方で平成仮面ライダーのようなメタ構造を見せ、15周年のプリキュアだからこそ出来る作品となったが、今作では「令和」時代のプリキュアを象徴するような星の誕生の瞬間を観客は特等席で観る事が出来た。

 

ユーマが星へと変身していく時に、一緒に見た地球の景色だけでなく、ゾウなどの様々な命がそこを駆け抜けていくシルエットも見えて、ユーマがこの映画で学び取ったものを強く刻みつけている。

ユーマは超新星爆発からの誕生であり、SFながら実際の天文現象を下敷きにしたオリジンが素晴らしい。
星の死から生まれた新しい命は、善悪も他者との対話の方法も、優しさも悪意も何も知らない。
そういう無垢な子供は、同時に惑星ほどに巨大な、あるいは地球を滅ぼすほどに危険な存在でもある。
そんな星をメインに置くことで、子供たちが持っている善悪両面の可能性、それを良い方向に導くべき大人の責任を、しっかり語り得ていたと思う。

 

ユーマという名前も良かった。未確認動物というまだ何者でもないからこそ、いつか何かになるもの、何にでもなりたいものになれる。去年のハグプリが「なんでもなれる」というテーマだったが、そもそも前提として自分が何者になりたいか想像するイマジネーションがないと「なりたいもの」自体がなく、何者にもなれない。ユーマはひかるとララとの冒険を通じて、自分のなりたいものをイマジネーションする事が出来た。ここらへんのテーマ性は去年より一歩踏むこんだモノになっていて、プリュキアが年々進化していっていることを実感出来る。

こういうテーマ性は「しゃらくさい」とバカにするオタクがいることは知っている。ただ、いい年こいて子供向けアニメを小馬鹿にしたくて鑑賞しているオタク達のためにアニメを創るのではなく、これからの子ども達のために必死に考えてテーマを盛り込みアニメを創るプリキュア制作陣を個人的には応援したい。

 

ひかるとララ。

宇宙に輝くクワンソウの畑で、ララは自分が守り育んだ幼子の「またね」を受け取って、大きな星に育っていくユーマに夢を見る。

最後、日常に帰還したひかるが言う。「いつか」と。
それがたとえ届かない夢だとしても、途方もない未来の話だとしても彼女は、彼女なら走り抜けることが出来るだろう。
この「決して届かないものに手を伸ばす」「別れを笑顔で受け入れる」動きは、おそらくTV放送最終局面で来るひかるとララとの別れを予感させて、今から少し泣く。

 

最後に

ひかるの口癖であり絶対に流行らないだろう「キラやばー☆」というセリフ。本作では過去最高の形、成瀬瑛美さんが星奈ひかるを演じてくれて良かったと思える使われ方をしており、ここだけでも観て欲しい。

また、テレビシリーズを知らなくても、無駄を極端に削ぎ落とした大傑作SFジュブナイルモノになっているので、まだ観れてない人は是非、劇場で観て欲しい。

やはり、プリキュア映画は子ども達が「ミラクルナイト」を振っているのも見守りながら観るのが醍醐味なので、どんな大音響や、IMAXなどの大画面を堪能できる洋画より劇場鑑賞向けである。

 

最後の最後に。こういう事を書くとまーたプリキュアおじさんが気持ち悪い事を言っているよと言われるかもしれないが、こういう豊かな共存があり、相互理解のアニメを子供達が観ながら成長していくのはこれからの希望だなと想ってしまう。ありがとう、プリキュア

 

スター☆トゥインクルプリキュア プリキュアおしゃべりフワ