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「M-1グランプリ2019」感想。ぺこぱの「さっき取った休憩は短かった」のワードセンス

最終審査発表前でのぺこぱ・松陰寺太勇さんが言った「死ぬ前に見る走馬灯の1ページ目は今日だと思っている」という言葉に、彼らの今までの苦労が凝縮されていて少し感動してしまった。しかも、1ページ目なのが更に良い。

ぺこぱはM-1グランプリに出場した今日この瞬間から、漫才師としての新しいスタートが始まる事を1ファンとしてどうしようもなく期待してしまう。

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M-1グランプリ2019」のレベルの高さ

今年は本当にレベルが高かった。私も2001年からずっと「M-1グランプリ」を見続けてきたが、どうしても10組もいると面白さの波長が合わないコンビが2、3組ぐらいいたもんだが、今年はどのコンビも面白かった。ニューヨークも私は好きですね。

特にミルクボーイとかまいたちとぺこぱはどれが優勝しても納得出来る、三者三様の面白さで笑い疲れしまった。やはり「M-1グランプリ」って良い。他の賞レースにはない緊張感とお笑い芸人達の情熱を感じられる。

 

時代と共に変わり続ける笑い

笑いって世相に影響受けやすい文化だと思う。

ジャルジャルの「誰も傷つかないネタ作ったら自分が傷ついた」という敗者の弁が印象深いように近年の「M-1グランプリ」では暴言やドツキ叩き、過度で不快な自虐は好かれない傾向にある。

M-1グランプリ2019」ではそれが更に進んで「いいねっ」の和牛やミルクボーイ、ぺこぱなど、ツッコミが「相手を理解しようとする」に変化しつつある。それは「なんでやねん」や「いい加減にしろ」のように相手を1ワードで切り捨てるのではなく、ボケを否定せず受け入れる笑いに変わってきていると思う。

ただ、当たり前だが、優しさだけは笑いは取れない。

特にワードセンスと工夫、技術が必要となってくる。

ここで本題のぺこぱの話をしよう。

正直、最初ぺこぱを見た時、何だこの色物枠は、嫌いというのが第一印象だった。

特に松陰寺太勇の自己紹介をみた時、あーあアカンなと思った。

でも違った。

その全肯定ツッコミはミルクボーイで笑い疲れた身体と精神に丁度良かった。

更に彼らの漫才には全肯定ツッコミを笑いに変えるワードセンスと工夫、技術が詰まっていた。

「いや、被っているなら俺が避けたら良い」「痛ってえな!と言える時点で無事でよかった」「もう誰かのせいにするのはよそう」「知らねえんだったら教えてあげよう」「知識は水だ。独占はよくない」「いや右だって言ってんのに3回も曲がると左になる」「ハンドルを握らなくても良い時代はそこまで来ている」「ナスじゃないとは言い切れない色合いだ、ヘタもついている」「キャラ芸人になるしかなかった。何かを欲しかった」「正面が変わった!?」「さっき取った休憩は短かった」「漫画みたいなボケしているけど、その漫画ってなんですか」「もう適当なツッコミを言うのはやめにしよう」「間違いを認められる人間になろう」「間違いは故郷だ。誰にでもある」「出来ないことは出来ないと言おう」などなど優しいワードセンスに溢れている。

 

特に「さっき取った休憩は短かった」は地味に工夫と技術が凄い。

私がぺこぱ風にツッコムなら「さっきの休憩は短かった」って言ってしまいそうになるが、「さっき取っただろ」という観客にテンプレツッコミを思い浮かべさせつつ最後に「休憩は短かった」と外すこの緩急のとり方が絶妙だったと思う。

しかもテンプレツッコミ部分と外す部分で声色を変えたりする工夫も完璧で、物凄い練習と、努力の塊をこの短いワードで凝縮されていて、好き。ファンになる。

 

ミルクボーイの「コーンフレークは生産者の顔が見えない」やぺこぱの「漫画みたいなボケしているけど、その漫画ってなんですか」のように観客に気づきを与え、世界の解像度を上げてくれる笑いは感動すら覚えてしまう。

こういう人達が私達に新しい風景を見せてくれるのだと思うと、笑いって素晴らしいなとしみじみ思ってしまう。

 

最後に

ぺこぱより和牛の方が面白かった、最終決戦に行って欲しかったという人もいるだろう。

いや、そういう意見があったっていい。

みんなで時を戻そう。