「作者と作品は切り離して考えるべき」
これは例えば人気作家がSNSで炎上した際に、俳優の逮捕が報じられた際に、毎回のように挙がる話題だ。
そもそも、作者の人間性と作品の質に関係性を見い出すのは、非常に困難である。
性格がどうしようもなくクソな人からも世紀の大傑作は生まれる可能性はあるし、その反対に、誰からも愛される人が誰からも愛される作品を創造出来るとは限らない。
僕自身も「作者と作品は切り離して考えるべき」は正論だと思うし、そういう見方で作品を鑑賞したいと常々思っている。
そう、常々思っていたんだ。
アニメ映画『えんとつ町のプペル』に出会うまでは。
この『えんとつ町のプペル』の原作は、5000部でヒットと言われる絵本業界で「大人も泣けるストーリー」として話題を集め57万部を超える大ヒットとなった同名の絵本である。
絵本は西野亮廣を監督として33人のクリエイターが分業し、完成した。
映画でも西野亮廣が製作総指揮と脚本を務めている。
この西野亮廣、お笑いコンビ「キングコング」として活動し、ネットでは「西野亮廣は天才!」と憧れの羨望を持ってる人と、苦手意識を持っている人に見事なまでに分断している。
同じ芸人からも
オードリー若林から「気力、体力、自己肯定力の人」と言われ、
千鳥大悟から「捕まってないだけの詐欺師」と言われる。
西野亮廣に対する感情、0か100であり、多くの人が0である。
Twitterなどをしていると度々視界に入ってくる西野亮廣オンラインサロン(月額980円)の活動を見ていると胡散臭い事が多い。
今回の映画でもサロンメンバーがポスティングしたり、上映後に拍手したり、盛り上げる為に日夜頑張っているらしい。
そして映画としてアニメーションを製作するのはSTUDIO 4℃。
『マインドゲーム』で文化庁メディア芸術祭アニメーション部門大賞
『鉄コン筋クリート』で日本アカデミー最優秀アニメーション作品賞を受賞したり、
特に去年公開された『海獣の子供』は「作画お化け」と言いたくなるアニメーションが売りで、多くない予算の中でこんなアニメどうやって作っているんだ!!と思っていたら
アニメーターの残業代を払っていなかったというオチ。
そんな西野亮廣とSTUDIO 4℃が夢のタッグを組んだのがアニメ映画『えんとつ町のプペル』なのである。泣ける。
西野亮廣曰く10億ヒットでは赤字らしい本作は個人的には映画失敗して欲しい気持ちもムクムク出てくるし、同時に映画が大成功して西野亮廣大嫌いなオタクが内心「ぐぬぬ」ってなってる所を見たいという気持ちもあってせめぎ合っている。どうしたらいいんだ!!!
今回はそんなアニメ映画『えんとつ町のプペル』の感想をネタバレありで書いていきたい。
あらすじ
煙突だらけの“えんとつ町“では、街中のそこかしこから煙が上がっていて、空は黒い煙に満ちている。 親を亡くした少年ルビッチをはじめ、住民たちは青い空も、輝く星も知らなかった。ハロウィンの夜、そんなルビッチのもとにゴミ人間のプペルが姿を現した。
西野亮廣の顔がチラつく
まずハッキリ言っておきたいのは窪田正孝、芦田愛菜などの声優陣、技術の最高峰である。
特に藤森慎吾の早口とか滅茶苦茶良かったですね。
もはやプロ声優じゃない=下手という図式は過去のモノになりつつあると思う。
芦田愛菜は『海獣の子供』でも上手かったし、男の子役でも上手い。完璧か。
アニメーションは流石STUDIO 4℃。過去作が好きな作画オタクの人にも楽しんでもらえる出来である。アニメーション会社と言えば、ufotableの脱税もそうだけど、凄いクオリティ作品を作りだせば犯罪も許される風潮になりつつあるので頑張ってほしい。
そしてストーリー。
黒い煙で覆われた「えんとつ町」に住み人々は青い空を知らない。輝く星を知らない。空を見上げた所で何もないので、町の人達は空を見上げる事をしない。
そんな中、少年ルビッチとゴミ人間プペルだけは「あの煙の向こう側には何があるのか。星があるんじゃないか」と想いを馳せる。ところが町の人達はそんな2人を「あるわけないろう」と笑い、見下し、容赦なく叩く。
それでもルビッチは父の意志を継ぐため、ロマンの為、夢の為。
「星があることも分からないし、ないこともわからない」
だからこそ頑張る
これは黒い煙を突き破り、星空を見つけるまでの希望の物語。
西野亮廣のドヤ顔がチラつく物語である。
周りから馬鹿にされても、見下されても、信じ続けることで、歩み続けることで世界を変える事が出来るというテーマ。
ただ、そんなルビッチを冷笑する者や同調圧力に屈する者の描き方が露骨なまでの「悪」として描いている。それがどうしても「えんとつ町の住民とルビッチ」の関係性を「世間と西野亮廣」に被らせながら描いてそうで、世間から笑われながらも夢を持って頑張り続けた俺!西野亮廣!!というのがずっとチラつく。
ルビッチに1番キツくあたっていた人が実は昔、同じように星に憧れを持っていながら同調圧力に屈した経験があった事が判明するシーンとか西野亮廣めちゃくちゃ気持ちよくなってそうである。
↑多くの人が勘違いしてそうだけど、左のゴミ人間がタイトルにになっているプペル(CV窪田正孝)であり、右の少年がルビッチ(CV芦田愛菜)
この物語が適度に脱臭しながら『クレヨンしんちゃん』とかで映画化されたら子供に向けた良いテーマで、大人も感動もして泣いちゃうかもしれない。ただ、本作は『えんとつ町のプペル』なのである。どんな感動的シーンも西野亮廣の顔がチラつく。
イメージとしては卒アルの集合写真で欠席者が右上に浮かぶように、STUDIO 4℃によるハイクオリティアニメーションの中、ずっと西野亮廣の顔が右上で浮かんでいるようなものである。邪魔である。
感動的であればあるほど、説教的であればあるほど西野亮廣の顔がチラつく。
100%映像に向き合うように作られているシアタールームで、僕は映像に向き合う事が出来ない。映像越しの西野亮廣と向き合っている。100分間の西野亮廣地獄である。
あと、星という観客にとって当たり前のものを信じていない民衆を愚かに見えてしまうので、誰も信じていない真実が「夜空には星がある」というのも見せ方が姑息よね。
全体的に『ONE PIECE』の空島編ぽいけど、ロマンが足りない。
細かな所
- 異端審問官がやる気あるのかどうかが分からん。母親の送り出すシーンとか、これ言ってる間に捕まえられるだろ!!!ってなる。
- 内通者の奴がコウモリにあっさり負けてて笑う。ルビッチと戦うと思ってたのに。裏切ってた事も知られないまま退場するとは。
- ルビッチのおやじ、あんな図体してるのに喧嘩弱すぎ。
- 劇中の時間経過に良い感じの歌と共に展開していく『君の名は。』システムはいい加減廃れて欲しい。
- 「腐るお金」の話。ドイツの経済学者で、シルビオ・ゲゼルの本『自由地と自由貨幣による自然的経済秩序』に影響受けすぎである。ここだけやたらと生々しいのどう考えても西野亮廣が賛同しているからだろうし、「腐るお金」って良さそうって思える内容なのでアニメ映画『えんとつ町のプペル』は西野亮廣へのプロパガンダ作品にも思える。
- 調べると『えんとつ町のプペル』は全10章の内の3.4.5章を中心に構築したらしい。和製ジョージ・ルーカスなのか。
- 『えんとつ町のプペル』の文字だらけポスターで「鬼滅○刃より泣ける!」って書いある奴がネットに出回ってるけどアレはコラ画像だから!いくら西野が嫌いでもまとめに騙されてはだめ!
最後に
「作者と作品は切り離して考えるべき」という考え方は作者が自らSNSなどで宣伝し、営業し、炎上する中で、「そんなの無理」と考え直している人も多い。
自分の大好きな作品の作者が犯罪を犯して逮捕されたら、後からその作品読み返してみても今までスルーしていた事が「この描写、少女への隠しきれない想いから描いたのかな」とか色々考えるようになってしまう。
否が応でも「引きずられてしまう」
「その作品のファンが嫌いだからその作品ごと嫌いになる」といった作者が一ミリも悪くない事でもアンチが増える時代だ。大変。
そんな中、日本一の漫画家と言っても過言ではない吾峠 呼世晴先生は表に全然出てこないし、インタビューもほとんど受けない。偶にコメントとか出しても、その謙虚過ぎるコメントに感動してしまう。また、『千と千尋の神隠し』を抜き日本映画NO1になるだろう『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』の監督である 外崎春雄の名前を知っている人はどれだけいるのだろうか。恐ろしく裏側に徹している。
この誰でも表側に出れて好き勝手に言える時代に裏側に徹する。
それは当たり前の事かもしれないが、大事な事であり、『鬼滅の刃』は作品にだけ集中できるような心遣いがあり、製作陣の顔がチラつかない作品なのだなと『えんとつ町のプペル』を観た帰りの電車で思いました(個人でやっているのと週刊少年ジャンプでやっているのでは宣伝などのやり方が変わってくるのは当たり前なのは重々承知なのだが)
最後に一言。
サロンメンバーがポスティング(プペルのチラシを投函している)と知った時は流石にちょっと引いた。
草の根的な宣伝活動が重要なのは分かるけども!