デューイが親指を立てて溶鉱炉に沈んでいくシーンは涙無しには見られませんでした。
という感想を狙ったようなシーン、僕は逆張りクソ野郎なので心がスッと引いちゃった。
という訳で『EUREKA/交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション』の感想と僕なりに考えた解説をネタバレありで書いていきたい。
エウレカシリーズの完結編ではあるものの、スタッフは前作から結構変わっており、まずエウレカシリーズのキャラデザと言えば吉田健一だが、今回彼は「キャラクター原案」という立場に収まり(恐らく殆ど関わってないと思われる)、作画監督&キャラクターデザインを『亡念のザムド』などの奥村正志が兼任した。また初期からシリーズ構成、脚本を担当していた佐藤大も離れ、メカニックデザインには大河原邦男が参加した。
解説①レントンの死とエウレカの夢
映画『ANEMONE』の話になるが、『EUREKA』は『ANEMONE』の続きなのでここを理解してないと話が分からないと思うので復習も兼ねて解説する。
本物のレントンはTVシリーズの中盤でアクペリエンスに巻き込まれ、スカブに取り込まれて死んでしまっていた。
TV版、漫画版、『ポケ虹』『AO』『ハイエボ1』、パチンコ関連コンテンツ、ゲーム版など様々なシリーズ展開してきたが、それら全てが「結果的にレントンが死んでしまう世界線」であり、何度も創り出しては、レントンの死を免れることができずに放棄してきたエウレカの夢という衝撃のリセマラ設定が明かされた。
これはデューイのセリフを引用すると分かりやすい。
「お前たちが見ているエウレカセブンはエウレカセブンではない。偽りの神が創っては破棄したゴミの山だ。お前たちがやってきたことはごみ処理以外の何物でもない。しかし、それも間もなく終わる」
そして大量のリセマラの結果、放棄された世界の残骸がマルチバースへ影響を及ぼし、『ANEMONE』世界、『EUREKA』でいう所のブルーアースの世界に巨大なスカブコーラルとして出現。26億人の人々を殺してきたそれは「エウレカセブン」と呼称された。
ブルーアース世界のアネモネは、そんな悲しみに暮れるエウレカを助け出し、自分たちの世界、ブルーアースに連れ出す事に成功するが、その結果、エウレカの夢である仮想空間に生きていた人々(グリーンアース)は創造主を失い、エウレカと共にブルーアースの世界へと受肉することとなった。これが大融合である。映画『ANEMONE』の話。
そして映画『EUREKA』ではエウレカが生んだグリーンアースの人類と、元々いたブルーアースが共に生きる世界となっている。
解説②レントンとニルヴァーシュZ
『ANEMONE』のラストでニルヴァーシュZが誕生するが、エウレカがレントンに会うよりもブルーアースの世界を守る事を選んだ為、ニルヴァーシュZはハイレボ1の冒頭出てきたような巨大赤色触手体(シルバーボックスとコーラリアンとの融合体か?)と戦いに挑む。しかし、そこにスーパー6が搭乗したブルーアース側の秘密兵器「ラブレス」が現れ、ニルヴァーシュZと巨大赤色触手体を凍結し、宇宙空間に射出することになった。
レントン。
パンフレットで京田監督が
レントンは「早く呼んでくれたら、もっとすぐに来たのに」と思っていると思います(笑)
レントンの個体はハイレボ1のレントン・ビームス・サーストンとエウレカが生み出した夢の2種類がある。
ビームス夫妻が知っているレントン・ビームス・サーストンと最後に出てきた個体は一緒だと思われる。
アクペリエンスに巻き込まれ死んだと思われていたが、実は別世界(ハイエボ1のラストや『ANEMONE』のラスト)で生きていた。ハイエボ1の画角変化は演出や使いまわしだけの意味ではなく、エウレカの仮想空間(テレビサイズの画角)ではない世界の意味だと思われる。
そしてレントンはニルヴァーシュZに受肉し(終盤のニルヴァーシュZはウルトラマンっぽいが、同時に服装のチャックなどレントンに似ている)
最後の最後、エウレカの想いに応じる。そして人間となり、様々な経験を積み、悩み、苦しみ、泣いたエウレカの姿を見て「きれいだよ」とレントンは言うのだ。
解説③レントンとエウレカとアイリス
レントンのいない世界で、スカブコーラスを生み出すEUREKAの力を失くしたエウレカが1人の人間として贖罪の為に生きる。今までのシリーズから見た目が大幅に変わってしまったエウレカだが、力を失い、筋トレと酒に溺れた生活の表れだと思うと納得する。
そんなエウレカに変化を与えたのがアイリス。アイリスはかつてのエウレカと同じくスカブコーラスを生み出すEUREKAの力を持っているが、両親に愛され、真っ直ぐな少女に育っている。
そんなアイリスとエウレカの逃避行が本作の中盤となっている。映画『ローガン』を彷彿とさせる展開ともいえる。
「一緒にいた時間があの子を私たちの宝物に変えたんです」
とアイリスの両親は言う。その意味をエウレカは分からなかったが、共に冒険する中でエウレカは自分を見つめ直すキッカケになる。
力を失っても、どんな状況に置かれても、未来のために、他人のために、それがどんなに小さなことであっても、自分が今できることを最後まで諦めずにやる。
贖罪ではなく、自分の過去と向き合い、それでもなお行動する。それは愛する者のため。人間らしく。
欲を言えば、あと5分ぐらい尺伸ばして一緒にニルヴァーシュに乗って、カットバックドロップターンとかして欲しかったけど、微妙に観客が望むことからズれるのがエウレカだと思うのので、そのモヤモヤ含めてエウレカっぽいと言うしかない。
それにしても逆シャア展開やりたかったのかもしれないが、ホランドやスーパー6が無駄死にしか見えなかったり、新月光号の活躍が特攻ぐらいしかなかったり、軌道エレベーターは崩壊してるから滅茶苦茶人が死んでいたり、エゴの要素が強過ぎて、うーーーーんとなる事も多いラストだった。しかし、それもまたエウレカ。
虚構と現実と京田世界
デューイは言う。
「我々は世界観設定と呼ばれるルールの上で、物語を成立させるために作られた機械人形に過ぎない。我々は台本通りに生まれ、台本通りに生き、台本通りに死ぬ運命にある」
エウレカによって生み出された仮想世界であるグリーンアースのデューイ。フィクションの中の自分。メタ構造は『交響詩篇エウレカセブン』と『交響詩篇エウレカセブン ポケットが虹でいっぱい』の関係性にもあった。
『交響詩篇エウレカセブン ポケットが虹でいっぱい』に出てくるアゲハ神話。
「星の粉をまといし、その白き聖なる者、
欠けた月と共に星の虹の橋をかけ、
選ばれし乙女と男の子は
地より生まれし全てのものを
青き珠に帰するに至らん。
その者、約束の虹より遣わされ、
戦うことなく地上の敵意を鎮めん。
世の理の超えし者そのコンパクの声を発し時、
2つの童は1つとなりて
白き聖なる者にならんとす。」
これはレントンとエウレカの事であり、劇場版の世界観の中に、TV版の物語が逸話として入り込むとういうメタ演出でもある。エウレカはこういうメタ演出が大好きである。
そして本作は『交響詩篇エウレカセブン ポケットが虹でいっぱい』であったアクセサリーが登場することにより、現実世界だと思われていたブルーアースの世界もまた仮想空間であることを示された。現実世界、これを仮に京田世界だとする。図にするとこう
最後に
TV版以降のエウレカシリーズは微妙にファンから望むことからズレた展開が多く、モヤモヤする事が多い。そんな中で『ANEMONE』が直球の名作だったために、見方を間違ってしまって、期待してた奴とは違う感は否めない本作。
これは本作だけでなくハイエボ通して、あまりにも旧月光号メンバーが疎かにされたり(ストナーとかどこいったんだ)
エウレカAOからまさかにエンドウさん参戦だったり
ゲーム『NEW WAVE』『NEW VISION』や漫画の『エウレカセブン グラヴィティボーイズ&リフティングガール』からサムナとルリが参戦するものの、ただのハサウェイとデューイの膝枕要因となっていてキャラ崩壊していたり、
う~~~~~~~んである。
ただ、デューイがピアスの分だけ生き返れるが、それが6個あると知った時は「多いな!」と思ったけど、雑に消化されるパートで笑いそうになるし
エウレカとアネモネの関係性は相変わらず良いし(ドミニクどこいったんだ。ただ、アネモネが指輪しているので恐らくきっと)
背景にEMOTIONのモアイやバンナムのマークが出てくるのも味があるし
エウレカといえば様々なオマージュがあって、当時からパクリ論争とかファン同士で色々熱かったけど、完結編で「ふざけるな!今までのはオマージュじゃねぇ!これこそがオマージュだ!!」と京田監督にぶん殴られたような感覚になったりして、「エウレカセブンらしさ」が詰まった映画になっているのは間違いない。
どうしても本作が嫌な人はもう一度『ANEMONE』を観て、本作もエウレカが見た夢の一つってことにしよう。
京田監督いわく、自分はエウレカから卒業してホランドの息子とアイリスが主人公の新しい『エウレカセブン』が創れる舞台は整えたつもりと言っているが、正直それを観たい人って少なそうだ。
エウレカとレントンの冒険はこれで終わりか〜という哀しみと少しの安心。もやもやありつつハッピーエンドといういうものエウレカ味だ。