世界の批評家たちが絶賛し、ベルリン国際映画祭にて最高賞にあたる金獅子賞を受賞しながらも、その内容から賛否両論を巻き起こしている問題作『ジョーカー(Joker)』
この映画を観る前、ネットでは「観るとしんどくなる」「辛い」「哀しい」「メンタルが不安定な人は観ない方が良い」「デッドプール助けに来て欲しい」「『HiGH&LOW THE WORST』と連続して観るとテンションの落差で風邪引くか、温冷交代浴みたいなのでととのう」などなど、どちらかと言うと気持ち良くなる映画ではなさそうな感想が目立ち、アメリカでは『ダークナイト ライジング』で実際に銃乱射事件があった過去もあり、荷物検査や、「子供に見せないように」と警告があったりする物々しい雰囲気の中での映画公開となった。
正直、私もわざわざお金払ってまで鬱になりたくないので、あまり乗り気じゃなく観た映画だったが、これが本当に今年観た映画の中でもダントツなまでの爽快な気持で劇場を後にする事が出来、踊り出したくなるような清々しい気持ちのまま、帰宅する事が出来た。
まるで世間の評価と真逆のようなこの気持。決して逆張りという言葉で片付けられないこの想い。
そういう気持ちを自分の中で整理しながら映画『ジョーカー(Joker)』の感想をネタバレありで書いていこうと思う。
社会に紛れ込んだ化け物
脳神経に障害を持ち、お薬を服用。貧しく、職場などの社会に居場所もない、母親の介護をする必要もあり、実は虐待された過去もある。そんな限界さの欲張りセットである中年男性アーサー(ジョーカーの前身)に更に社会保障の縮小という大波が襲いかかる。
人はそういうどうしようもない状況になった時、どうしたら良いのだろう。
私は一体どうするだろう。
ここは決して他人事ではない。
多くの人は大人なので我慢して耐えしのぐ。
社会に対して恨むを感じても、同時に自己責任を覚えてしまい結局は我慢しながら色々なモノやコトを諦めてゆるやかに死んでいく。
悲しみや自虐とセットでしか発露できない。
だが、アーサーは銃を取った。
ここら辺の精神は、『天気の子』にも通じていると思う。
アーサーと穂高くんの違いは、アーサーは元々頭のネジが何本か飛んでいて、須賀 圭介のような理解者が出てこなかったという事がある。
そしてアーサーは我慢しかできない私たちに「怒っていい」「嘲っていい」「復讐していい」と緩やかにステップを踏んで背中をそっと押してくれる。
しかし、それでも多くの人は普通、銃を取らない。
この映画を観て、誰しもがああなる可能性があるとは思えないし、「自分もジョーカーになりそう」とか思ってしまう人は1度自分自身を見直して欲しい。
アーサーは「残酷で非道な社会が1人の人間を歪ませ、ジョーカーという化け物を生み出した」のではなく、「生まれもっての化け物が薬と母親の存在によりアーサーという仮面を被っていた」という方が正しいと思う。
ただ、ただである。
自分が銃を持つのではなく、頭のネジが吹っ飛んだ奴が自分の代わりに銃を持って暴れ、自分が嫌いな社会をぶっ壊していくのを観るのは楽しい。
この感覚は『シンゴジラ』でゴジラが自分の勤めている会社や知っているビルを次々破壊していくのを観る感覚に似ていると思う。
子供の頃は確かにスーパーヒーローに憧れ、宇宙や地中から現れる世界を征服しようとする悪い奴らを倒す事に魅力された私は現実にそんなスーパーヒーローがいない事実にガッカリしてしまった思い出がある。
それが大人になると、この世には明確な悪い奴なんて中々いない事に気付く。
そして、自分の悩みの種は世界平和や、環境問題などの大きな話ではなく、もっと身近で自分勝手な話になる。
一応、補足すると大人になってもヒーローには憧れはあるし、ヒーロー映画を観るのは好きだ。
ただ、それはあくまで現実ではない物語として好きなのであって、現実にヒーローが欲しいと思うことは少なくなった。
恐らく現実にスーパーヒーローがいても、したくもない仕事をして、行きたくもない飲み会に出席し、好きでもない上司に怒鳴られ、説教される。でもそんな環境を変えようと今更転職をしようとする勇気も出てこない。そういう他人からしたら薄く、浅い問題でも私自身ではもはやどうしようも出来ない深い溝にはまったような感覚のまま生きている今の人生を助けてくれるとは思えない。
精々悩みを聞いてくれるだけだろうし、もしかしたら正論で説教されるかもしれない。
でもジョーカーがいたらどうだろうか。
この私の悩みを短絡的に壊してくれるのではないだろうか。
外ではデモをしているのに建物の中では富裕層が呑気に弱者を演じ続けたチャップリンの映画を観て笑っているシーンがあるが、そんなどうしようもないゴッサムシティに暴動を起こしたように。
会社に隕石が落ちてきて欲しいと思うようなモノで、実際の解決にはならないかもしれいし、自分自身にも被害が及ぶかもしれない。
それでも頭の片隅で願ってしまう。この映画のジョーカーなら私の悩みごと、この社会をぶっ壊してくれる事を。
私はどんなヒーローよりもジョーカーの誕生を望んでいるのではないかという疑惑を捨てきれない。
確かに、そう思ってしまう事自体がジョーカーの思惑通りで、この話で同情や哀れみ、共感などする人をあざ笑う様な奴だとは思う。結局は「ジョーカー」という幻想に踊らされるだけなのかもしれない。
ラストのカウンセリングのシーンで判明するが、そもそもあのアーサーの人生自体がジョーカーのジョークで、事実ではないのかもしれない。
でもこの映画を観て、魅力されてしまった事実は少なくともジョークではない。
また、アーサーという、これまで悲劇だった彼の人生はこれからジョーカーとして人生右肩上がりしていくのだから、微笑ましく応援していきたい。
そして、予告などでは「衝撃」というワードをよく聞いたが、正直そんな衝撃がある内容とは思えず、愚直に真っ直ぐ爽やかにヴィラン誕生を描いている。
そんな彼の誕生を祝福しながら、私もあなたも誰でも何にでも変われる。誰かになれる。この理不尽な社会で一方的に押しつけられず、新しい自分を創造できる。
新しい一歩を踏み出せる。
そんな映画になっていると思う。
「本当は悪は笑顔の中にある」
この映画のキャッチフレーズである「本当の悪は笑顔の中にある」
これはジョーカー自体の事を指しているが、もう一つ意味があると思う。
それは「弱者を笑いモノにする」笑い。
そもそも笑いとイジメ(弄り)は紙一重であり、虐める側は楽しそうに笑うが、虐めらる側は乾いた笑いしかできない。アーサーも虐められる側なので心の底から笑う事が出来ないが、ジョーカーになり、虐める側になる事で初めて笑う事ができる。
アーサーの主観で虐める笑いを何度も見せられる事になるが、笑っている人も悪い人では決してなく、善良な人が多い。私自身も他人を見下し、笑いモノにする事がないとは言い切れない。他人を笑う事の複雑さと狂気がよく見えた映画だったなと思う。
自己肯定とバットマン
この映画ではまだバットマンは誕生していない。
アーサーが1人の人間としての自己肯定・自己承認が出来なくなるほど追い詰められた結果、アーサーではなく派手なピエロであるジョーカーとなり活動し、誰しもがジョーカーになり得る事を証明しようとする中で、バットマンだけが「その狂気はお前だけだ」とジョーカーを「個人」として見ている。例え、ピエロマスクの中に紛れてもバットマンだけは確実にジョーカーを捕まえる。
それはどんな事よりも、ジョーカーの自己肯定・自己承認を満たしてくれるのが分かるし、だからこそ2人は特別な関係なのだと確信する。
作品やシリーズ、媒体が変わってもバットマンとジョーカーの2人による特別な関係は終わる事なく続いていく。
最後に一言。
あのアルフレッド、過去最低に魅力がなくてガッカリ。
ただのボディーガードかと思ったわ!!
バットマン:キリングジョーク 完全版 (ShoPro books)
- 作者: アラン・ムーア(作),ブライアン・ボランド(画),秋友克也
- 出版社/メーカー: 小学館集英社プロダクション
- 発売日: 2010/01/21
- メディア: 大型本
- 購入: 22人 クリック: 239回
- この商品を含むブログ (49件) を見る