『窓辺にて』という映画は、カメラワーク、ロケーション、インテリア、衣装……どの要素を見ても、眩いオシャレな質感に溢れている。
画面だけ見れば、パーフェクトで眩い光の結晶のようなシーンが続くが、登場してくるのは「妻に浮気されたのに怒りが湧かない主人公市川茂巳(稲垣吾郎)」「憂鬱に浮気している市川紗衣(中村ゆり)」「市川茂巳の友人でこれまた妻に内緒で浮気している有坂正嗣(若葉竜也)とその浮気相手でタレントの藤沢なつ(穂志もえか)」……といったようにパーフェクトじゃない、今を生きる全ての人たちだ。これまでの今泉力哉監督作品の登場人物と同様に、社会の正しさのようなものからはみ出してしまう人々の魂がそこには見える。
「きっとこの時間はとても贅沢なものだったんだよ」
小説を書くとは気持ちを形作ること。なにかを残すこと。
それは小説に限らず、映画や写真もそうである。生産的な活動である。映画の中の台詞を借りるなら「創作とは、永遠に手をかけるようなこと」なのだろう。
本作では様々な「永遠に手をかけようとする人、した人」が登場する。
市川茂巳は1つの小説を書き、満足してそれ以降、一切の小説を書かなくなった男。
市川紗衣は編集としてより良い小説を世に出そうとする女性。
久保留亜(玉城ティナ)や荒川円役(佐々木詩音)は葛藤しながらも書き続ける人達。
カワナベ(斉藤陽一郎)はテレビ業界人だったが、作ったものが次から次へと世に出て行って、巧くいっても失敗しても次に活かせる訳でもない。そんなシステムに疲れて隠居した男。
市川茂巳は小説自体は書かなくなったものの、編集として仕事したり、紗衣の服のボタンを縫ったり、義母の写真を撮ったり、実に生産的な男である。
そんな中、タクシー運転手にパチンコって時間も金を消費していく贅沢な時間だと聞いて興味を抱く。しかし、そこでもまぐれ勝ちして大いに稼いでしまう(他人に譲るが)
そんな「残す」事の対比として、この「瞬間」にしか発生し得ないものである「光」がタイトルの通り窓辺にて一層に際立つ。
僕たちはそれを見て綺麗だと思う。
映画に出てくるどんな小説よりも、茂巳がそれまでにしていた結婚指輪よりも、その光の指輪は印象的で。
だからきっと、形として残らなくても、記憶に残ることってあるのだろう。この映画を映画館で観る僕たちのように。
茂巳と紗衣の結婚は終わった。2人がどこまで愛し合っていたかなんて分からないし、小説も書いていないのでどこにも何も形として残らない。
しかし、かつてあったあの愛情は決して消えることのない記憶として過去にはならず光り輝き続け、今を生きる自分と共に生き続ける。
稲垣吾郎という俳優
僕は基本的に酒・タバコ・風俗・暴力・爆発・尊厳破壊が出てくる映画しか観ないので俳優・稲垣吾郎といえば『十三人の刺客』で史上最悪の“暴君”明石藩主・松平斉韶の役を観て稲垣吾郎ってこんな顔も出来るんだ!?と驚いたのが最後である。
あの稲垣吾郎が裏の稲垣吾郎なら、本作は完全な稲垣吾郎の稲垣吾郎である。
稲垣吾郎が、稲垣吾郎役をしている訳ではないのに、僕が知る限りの稲垣吾郎が稲垣吾郎として会話をしながら、今泉力哉監督が作る"市川茂巳"になっている。そこに嘘はない。台本があるハズなのに台本がないような自然さを感じる。自然に見えて、とてつもないことをやっている気持ちになる。
まるで稲垣吾郎にしか見えない茂巳は正直者であるが故に会話の中で次にどんな言葉を発するか予想できない。
それは『SmaSTATION!!』の「月イチゴロー」で正直な気持ちで映画レビューしている時の稲垣吾郎を見ていた時のような気持ちになる。好き。
また、茂巳の「ええっ」のアクションが癖になる。あんなスムーズに「ええっ」を言える人、マスオさんか稲垣吾郎の2人しかないだろ。
他にも茂巳人生初めてのパチンコシーン。これ稲垣吾郎自身初めてのパチンコだろ!?と言いたくなるリアルな戸惑いが観てて面白い。
あとマスカットが落ちて拾ったのはいいものの、どこに置くか悩むシーン大好きなんだけど、あれマジのハプニングらしい。そんなことある!?
最後に
「パフェってどういう意味か知ってますか?」
「パーフェクトって意味ですね。パルフェ。フランス語。完璧なお菓子って意味。
という会話の後に意外にパフェって完璧じゃなくね?という会話が続いたけども、市川茂巳も一見顔はイケメンだし、サブカルクソ野郎のファッションでイケてるし(真似したい)、金稼ぎは良いし、性格も良い。しかし、全然完璧ではなかった茂巳。まるでパフェである。茂巳はパフェをそんなに好きじゃなかったハズだったが、最後にパフェを頼むのは、完璧じゃない自分自身を受け入れるって意味なんだと思ったりする。
自分を前よりも好きなる。そんな素敵な終わり方だったのだと思う。