『バズ・ライトイヤー』観てネコちゃんじゃなくバズのオモチャが欲しくなるアンディ、オタクの素質しかない。
ピクサー・アニメーション・スタジオの代表作『トイ・ストーリー』シリーズに登場した、おもちゃのバズのルーツが明らかにされる長編アニメーション。『トイ・ストーリー』シリーズを通して活躍したおもちゃのバズは、持ち主アンディの大好きな映画の主人公であるスペース・レンジャーのバズ・ライトイヤーがモデルになっており、本作ではそのアンディが大好きだったいう映画の物語が描かれる。(映画.comより)
SF映画としてよく出来ている。
オタクは初めて見た“ウラシマ効果”作品を親だと認識する習性を持っていることは皆さんもご存知だと思う。『トップをねらえ!』や『ほしのこえ -The voices of a distant star-』『奏光のストレイン』など。
ウラシマ効果とは光速に近い速度で移動すると、静止していた物に比べて時間の経過が遅れる現象のこと。
本作ではある事故をきっかけに未知の危険な惑星から出れなくなってしまうことで物語は始まる。
何とか自分たちの惑星に帰ろうとバズが「ハイパースピード」に挑戦することとなるが、挑戦のたびにバズと拠点となる惑星の時間はズレていく。
1回の挑戦は4分間だが、地上での経過時間は4年。しかも挑戦は何度も何度も失敗する。バズは自責の念にとらわれながら挑戦を続ける。しかし、数を重ねるごとに仲間たちはバズをひとり取り残し年老いてしまう(ウラシマ効果を誰も予見できなかったのどうかと思うが)
悠久の時間の中で忘れ去られていく男の悲哀や、宇宙の中で「故郷」の意味を再度問うてくる王道のSF映画になっているのだ。
しかし、この映画の場合、問題もある。
それはアンディが1995年にこの映画を観てバズ・ライトイヤーのオモチャを欲しくなった点だ。冒頭でわざわざこの映画は1995年にアンディが観て感動した作品という説明から入るのでトイストーリーとの関係性は無視できない。
1995年にこの映画が作られるのか?
「貴様は私の父を殺した!」
「違うバズ、私がお前の父親だ」
「ウソだぁ~~~~~」
トイストーリーでは安直なスターウォーズパロディだったバズとザーグの関係性を本作では再解釈している。つまり、ザーグはバズの父親ではなく、バズの未来の姿、未来からタイムマシンでやってきたバズ自身という設定になっているのだ。
もはや、この時点でトイストーリーとの整合性はない。
映画『バズ・ライトイヤー』が1995年ぐらいに公開されたバズの原点になる作品だ。しかし、トイストーリー世界の中で『バズ・ライトイヤー』はテレビアニメ化もしたハズなので、おそらくそのテレビアニメシリーズの中でザーグがバズの父親という後付けがなされたのだろう。テレビと映画で順番が逆だが、『交響詩篇エウレカセブン』の後に映画『交響詩篇エウレカセブン ポケットが虹でいっぱい』が公開されゲッコーステイト メンバーの性格と設定がほぼ別人で荒れたように、トイストーリー世界が荒れたのも想像に難しくない。
しかし、個人的にはバズ・ライトイヤーの原点の物語というのであれば、この安直なスターウォーズパロディから逃げて欲しくなかった。
そしてこの映画の違和感はもう1点ある。それは1995年の時代性について。
映画『バズ・ライトイヤー』は責任感が強く、自信過剰で、他人に頼れない性格のバズが自分自身を許し、独りよがりで「有害な男らしさ」からの解放が1つのテーマになっている。この「有害な男らしさ」は現在のトレンドで、今時白人男性が主人公のハリウッド映画が作られるときに大体セットでついてくるもので、手垢がつきすぎている印象がある。
しかし、1995年にそんなテーマは時代を先取りしすぎである。ドリームキャストみたいな映画。
1995年に黒人女性がこんなメインはるのも無理がある。モーガン・フリーマンが白人にアドバイスする映画に出まくってた時代やん。
同性婚描写もそう。
同性キスシーン描写が物議を醸しており、中国など14か国で上映禁止になった。
そのニュースを見た人がバズが同性愛者になったと勘違いしてネットで叩くという地獄みたいな炎上が日本でもあった。叩く前にちゃんとソースを調べてくれと言いたくなる。
バズは親友の女性に同性のパートナーがいることを、サラっと受け入れ祝福する。同性愛が自然の出来事のように振る舞う。
Twitter見てると同性愛描写を絶賛している人も多いけど、個人的には違和感がある。僕が同性愛嫌悪者だからという理由ではない。この映画は公開されたのが1995年という設定だからだ。
1995年に生きていた人は思い出して欲しい。1995年ってそんな同性愛を受け入れる時代だったか?まだまだ偏見が根強い時代だっただろう。それは映画でもそう。少なくとも1990年代前半のディズニー映画ってアニメ映画『アラジン』とか『美女と野獣』など異性愛描写ばかりで同性愛なんて殆どなかった。僕が知っている限りピクサーもなかった。
『バズ・ライトイヤー』の世界観が現代とは違う遥か未来か、過去だとしても1995年に公開された映画の設定なのだから、当時の制作陣の時代性、思想が作品に反映されるのは当然だ。未来の設定なのにジェンダー観は前時代的というSF傑作作品なんて残念ながらよくある話だ。
たしかに、そんな1995年が正しいとはいえない。現代から見て間違っていたのだろう。
間違っていた1995年だからといって「同性愛描写を当たり前のようにやります!」と歴史修正するのは、未来からやってきたバズ(ザーグ)とやっている事が同じにしか思えない。
平成初期が舞台のネトフリ版『呪怨』で女性ばかりお茶くみしていると炎上したのを見た時と同じようなモヤモヤがある。
1995年の公開された映画を現代でリブートしたって設定とかでよかったと思うのに。それで原作過激派のアンディがこんなの違うって怒って欲しい。
最後に
久しぶりにピクサー作品が劇場公開された訳だが、興行収入的に苦戦している。
『あの夏のルカ』や『私ときどきレッサーパンダ』みたいな新時代の名作が配信オンリーになり、『バズ・ライトイヤー』が劇場公開という決断にも失望するが、『バズ・ライトイヤー』が興行収入的に失敗して、ディズニーがピクサー作品はこれからは配信だけにします!と決断しそうなのが怖い、それだけディズニーに対して信用がない。ジョンラセター時代とはまた違う新しいクリエイターの生き生きとした作品をこれからも映画館で観たい。それだけを祈る。