「吉本興業製作」「企画・プロデュースが明石家さんま」「声優に芸人が沢山いる」「プペルにも関わったSTUDIO4℃制作のアニメ映画」「親子愛の押し売りしそうな内容で感動ポルノ臭がすごい」「”#みんな望まれて生まれてきたんやで”というTwitter広告の気持ち悪さ」
パイリン州のような地雷だらけの作品で、映画を観てもないのに何となく苦手意識、嫌悪感を抱いている人もいるアニメ映画『漁港の肉子ちゃん』
更にはエヴァのラストランの特典商法とガンダム映画最高のヒットになりそうな『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ』に挟まれてテレビで宣伝している割には空気なアニメ映画『漁港の肉子ちゃん』
僕もハードルを低くするだけでなく撤去して鑑賞したので感想を一言で言うと…
本当に良い作品だった。
舐めててすいませんと言いたくなる出来で、良質なジュブナイルドラマとストレートな人情話に感動してしまった。
ここからはネタバレに踏み込んだ話を書いていこうと思う。
あらすじ
お人よしでほれっぽい肉子ちゃんは男にだまされやすく、失恋するたびに娘のキクコと共に各地を転々とし、小さな漁港に流れ着く。そこで肉子ちゃんは妻に先立たれたサッサンが営む焼肉屋「うをがし」で働くことになり、母娘は彼が所有する漁船で暮らし始める。一方、地元の小学校に転入したキクコは、女子グループ間の人間関係に振り回されたり、一風変わった同級生・二宮と交流したりしながら、この町での暮らしになじんでいく。
「吉本興業製作」「企画・プロデュースが明石家さんま」
プペルの時に書いた制作者のドヤ顔が見える問題。
本作でも吉本興業制作で企画・プロデュースが明石家さんまだが、さんまの顔は透けて見えない。
確かに、肉子ちゃんの元カレが出っ歯だったり、最後の最後に明石家さんま本人が登場するがオマケ程度なので気にならない。
西野プペルの時とは違って脚本が別であるのが大きいのかもしれない。
原作としているのは、第152回直木賞を受賞し累計発行部数35万部を超えている西加奈子による同名のベストセラー小説。
それを明石家さんまが読んで「映像化したい!」と思った所から企画がスタートしているので、改変が少なく原作ファンが映画を観ても満足する出来になっている。魚の腐った匂いは作品からはしてこない。
明石家さんまはパンフレットでこう言っている。
「私が担当したのは企画・プロデュースです。作品づくりを”寄せ鍋”に例えると、僕は土鍋とガスコンロを用意させていただく係です。そこにスタッフのみなさん、声優さん、タレントさんたちが、色々な具材を持ち寄ってくれて、プロデューサーである私の作業はアクを取るだけという…。今回、しみじみそう思いました。アクはきれいに取れていますので、ご安心ください。アク抜きはうまいんで(笑)」
渡辺歩監督もこうコメントしている。
制作を振り返って🖌️#渡辺歩 監督「誰かがコンセプトやマーケティングの話をした時さんまさんが『そういうのはええねん。作り手が面白いと思うことが大切。いい話だと思うから、そこを大事にして作ったらいい』と。演者を活かすことを第一に考えて下さっているんだなと感じましたね」#漁港の肉子ちゃん pic.twitter.com/nzafwOfPsR
— 劇場アニメ映画『漁港の肉子ちゃん』公式 (@29kochanmovie) 2021年5月27日
明石家さんまのバラエティーの発言から好きではない。老害だと認識している人もいると思うが、そういう人にも楽しめる作品になっている(明石家さんまが大嫌いで、興業的に大失敗して欲しい人には無理だ)
「声優に芸人が沢山いる」
確かに声優に芸人が沢山いる。
宮迫博之や「アニメ向上委員会」のメンバーとしてゆりやんレトリィバァ、岩井ジョニ男、チャンス大城などが参加しているが、演じているのがカエルだったり、猿だったり、鳥居だったり。
肉子ちゃんの娘であるキクコが動物たちと会話する風の独り言をよく言うのでその時の動物たちの吹き替えとして登場するのだが、一言二言の出番なので気にならない。エンドロールで初めて分かったぐらいだ。2~3 週間で死んでしまうセミの声優が宮迫博之なのは明石家さんまのブラックジョークなのかもしれない。
「プペルにも関わったSTUDIO4℃制作のアニメ映画」
プペルでイメージが損なってしまった所はあるし、アニメーターの残業代未払いなどで問題にもなったけれど、アニメーションのクオリティは化物。
『マインド・ゲーム』や『鉄コン筋クリート』、『海獣の子供』を制作してきたスタッフ達が描くキャラの可愛らしくてコミカルでダイナミックな動きが素晴らしい。そもそもプペルも映像面は素晴らしかった。
そしてやはりキクコが可愛い。
(C)2021「漁港の肉子ちゃん」製作委員会
『海獣の子供』の時も思ったが、一枚絵で見るとそうでもないのに動きが加わるとやたらと可愛い。健康的なのに艶麗を感じられるその身体は「おれ、ロリコンかも」って疑心暗鬼にもなるので注意が必要だ。
「親子愛の押し売りしそうな内容で感動ポルノ臭がすごい」
(C)2021「漁港の肉子ちゃん」製作委員会
失恋するたびに娘のキクコを連れて各地を転々する肉子ちゃんに最初は「うえっ」てなるけど、本編が始まればキクコが小学校内での派閥に巻き込まれたり、二宮(cv花江夏樹)という男子に興味を持ったり、特別ではない普通の日常の話が続いていく物語であり、それは今まで普通とはかけ離れた人生を送ってきた肉子ちゃんが獲得した普通の人生讃歌。そこには感動の押し売りもない。
最後の最後に、冒頭からしつこいぐらい繰り返されていた、肉子ちゃんとキクコの「似てない」真相が明らかになる。
それは「実は二人に血縁はない」ということ。
しかし、その真相は映画を観ていた殆ど全ての観客は「知ってた」状態である。
それはキクコも同じで、本当の母親は肉子ではないと前から知っていた。
肉子ちゃんは自分が大切に大切に育ててきたキクコであっても、本人が望むのなら本当の母親と暮らしても良いと心の底から思っていて、でも同時に寂しさもあって、悩みがあって。
クソ男に騙され、子供を押し付けられ、鈍くて、貧乏で、デブで、不細工で頭も悪い。
でもその手は傷だらけで。不器用だけど愛があって。
そんな肉子ちゃんの事がキクコは大好き。
だからキクコは肉子ちゃんを選ぶ。この町で生きていく事を選ぶ。
生まれた場所ではなく「ここにいたい」と思った所がその人の故郷となり、「この人といたい」と思えば、血縁を超えてその人と家族になる。
そんな願いが詰まっている作品だなと思う訳で。
心の底から号泣する映画ではないけど、胸の奥底が熱くなる。そんな作品だと思う。
「”#みんな望まれて生まれてきたんやで”というTwitter広告の気持ち悪さ」
キクコは自分が肉子ちゃんの子供ではないことを知っていた。
自分がいなければ肉子ちゃんはもっと幸せになっていた気がしていた。だからこれ以上肉子ちゃんの脚を引っ張ってはいけないと思っていた。
「望まれて生まれてきた子じゃない」と言われないように優等生を演じてきた。
でも、それに気づいた大人が応える。
「生きてる限り、恥かくんら、怖がっちゃなんねぇ。
子供らしくせぇ、とは言わね。
子供らしさなんて、大人がこしらえた幻想らすけな。
みんな、それぞれでいればいいんらて。
ただな、それと同じように、
ちゃんとした大人なんてものも、いねんら。
だすけ、おめさんが、
いっくら頑張っていい大人になろうとしても、
辛え思いや恥しい思いは、
絶対に、絶対に、することになる。
それは避けらんねぇて。
だすけの。
そのときのために、備えておくんだ。
子供のうちに、いーっぺ恥かいて、迷惑かけて、
怒られたり、いちいち傷ついたりして、
そんでまた、生きていくんらて。」
そして言う「お前は望まれて生まれてきたのだ」と。
子供が悩み、大人がそれに真っすぐ向き合う。
映画ではカットされたが、原作では「二人に血縁はない」と知った後の夜、キクコは涙する。悲しいからでも、感動したからでもない。皆で食べた焼肉を思い出して。家族を体験して。そうやって、子供は成長していくのだろう。
Twitterなどネットではキラキラした綺麗事は批難されがちだし、” #みんな望まれて生まれてきたんやで”がこの映画に合っているとも思えないけど、ハッシュタグ利用して不幸自慢するのも何だかなと思ってしまう。例え親から望まれなくても周りに誰か1人でもあなたを大事に思える人がいないのかという話でもあるので(誰もいない人はネットがあるよ!あるよ?)
最後に
原作には「あとがき」と「文庫版のあとがき」の二つがある。
そもそもこの物語は、西加奈子先生と幻冬舎の編集者さんが東北の石巻市を旅したのがきっかけのようだ。
女川の漁港に立ち寄ったとき、小さな焼肉屋を発見しました。(中略)そして帰り道、その焼肉屋が頭から離れず、あの店で、すごく太っていて、とても明るい女の人が働いていたら楽しいな、なんて、ずっと想像していました。
しかし、『漁港の肉子ちゃん』の連載中に、東日本大震災が起こる。西加奈子先生は、連載を続けるべきかどうか迷った。しかし、宮城県出身の編集者さんから「続けましょう」と言われ、作者としての傲慢さが勝ち、連載を続けることに。
そして、この「あとがき」の次、「文庫版のあとがき」にはこう書いてある。
『漁港の肉子ちゃん』を読んだ人から手紙があった。
モデルにさせてもらった焼肉屋さんに、肉子ちゃんそっくりの女将さんがいたことが、書かれていました。底抜けに明るくて、地域の皆の太陽のようだったその方が、震災で亡くなったことも。
漁港にあったお店から想像を膨らませたが、まさかその店に本当に肉子ちゃんみたいな人がいるとは思っていなかった西加奈子先生。
僕のような性格が捻じれている人は嘘松認定してしまいがちだが、西加奈子先生は手紙を書いた読者に会いに行った。
そこで津波で流されてしまった焼肉店の話を聞き、地域の温かい人々に元気をもらい、小説を書く意味を知った。
「言葉にすると絶対におこがましく、ドラマティックになってしまう事を覚悟して」と前置きした上で
私にとって、小説を書くということは、世界中にいる「肉子ちゃん」を書くことです。
私たちは、いつか無くなります。この世界から、消えてゆきます。
でも、私たちの思いや、私たちが確かに「ここにいた」瞬間を残すことは、きっと出来るのではないか。私の中で、キラキラした石巻が、女川が消えないように、「肉子ちゃん」がいたあの瞬間は、絶対に消えません。「その瞬間」を積み重ね、残すことが、小説を書くことなのではないだろうか、私はそう思います。
それはきっと小説だけでなく、映画やアニメだってそうで。
作品は生きていた瞬間を残すことが出来て、観客はそれを追体験できて。
弟さんを失くしている明石家さんまが西加奈子先生作品や『漁港の肉子ちゃん』に思う所があるのはそういう側面もあるのではないかと僕は思う訳で。
最後までお読みいただきありがとうございました。