社会の独房から

映画やゲーム、漫画など。

『Life Is Strange』(ライフイズストレンジ)から考えるゲームを「観る」文化と「遊ぶ」価値その決断

ゲーム実況文化というのが根付いて久しい。ゲームは観るモノだという価値観の人もいるだろう。私は製作しているゲーム会社が許可している範疇であればゲーム実況自体を否定する気はないし、私自身『SEKIRO』など他人のプレイ動画とか暇な時よく観て参考にしたり、平日仕事終わりにゲームをする元気も映画をみる時間も気力もない時はゲーム実況とかを観て楽しんだりしている。

 

ゲーム実況は「友人がプレイしているの様子を一緒に見ている感覚」というのをよく分かる。私も子供の時はどちらかと言うと自分がプレイするより兄がプレイしているのを観る方が楽しかった。なぜなら私より兄の方がゲームがうまく、隣でギャーギャー騒いでるだけでゲームを進めているような感覚とゲームで遊ぶ事から生じるストレスがないからだ。

 

そう、ゲームを観るというのは受動的で圧倒的に楽なのだ。

ゲームを遊ぶというのはどうしても拘束時間も長いし(観ると違ってながら作業が難しい)収集要素など面倒な事を多い。また、難しい系のゲームは何度も死ぬから心が折れそうになって「この時間無駄じゃね」とか考えてしまったりする。

 

楽しみたいからしているのに何時の間にかストレスの要因や心の痛みになる事もある。

 

ではなぜそれなのに私はゲームを「遊ぶ」事を私はやめないのだろうか。

 

私はその「心の痛み」こそゲームを遊ぶ事の一つの真髄ではないかと考える。

そんな考えになった要因が『Life Is Strange』というゲームだ。

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このゲームはタイムリープをテーマのひとつにしたアドベンチャーゲーム(以下ADV)だ。このタイムリープものというのは、涙腺を刺激しやすいのか、ゲームでは『シュタインズ・ゲート』、映画では『バタフライエフェクト』などなど、名作が多数挙げられるジャンルでもある。

 

ただ、ADVというジャンルは今のゲーム実況文化とあんまり相性が良くないジャンルでもある。なぜなら「観る」と「遊ぶ」の境界線が薄いジャンルだからだ。

テキストを読む進めるのがメインになるため、ロケランで敵をふっとばす爽快感やアクション性、どのように敵を倒すかのような戦略性はないし、どちらかという言うと読書や映画鑑賞的楽しむ即ち「物語を楽しむ」人が買うゲームジャンルだと思う。

 

ただ「物語を楽しむ」だけならゲームを買う必要って稀薄である。他人のプレイ動画観ればいいだけなので(それこそ映画鑑賞のように楽しめる)

なのでADVはゲーム実況を禁止しているジャンルが多い傾向にある。

 

『Life Is Strange』も私はゲーム実況ではなく、実際に遊んで欲しいゲームだと考える。

なぜならこのゲームは最後の最後にある選択のためのゲームと言っても過言では無いからだ。

ここから先は『Life Is Strange』の完全なネタバレになるのでまだ『Life Is Strange』を遊んでない人は戻って、『Life Is Strange』を買ってきて欲しい。

マックスとクロエ

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本作の主人公マックスは内向的でクラスで浮いているオタク少女である。そんな彼女が突然、タイムリープという能力を持ってしまう。プレイヤーは、マックスを操作しコントローラーを使って、作中の時間を操作し、巻き戻したりスキップしたりする。彼女は戸惑いながらもその能力を駆使し、銃で撃てれて死んでしまった幼馴染・クロエの命を助けることに成功するのだ。ここからこのゲームは始まる。

 

マックスを操作しながら友情を育み、失踪した少女を探し、犯人を突き止めようとする。その過程で、イジメや麻薬などの学校の闇、小さな町の権力と対峙することになる壮大でありながら、その芯には誰もが通る青春の輝きがある。 

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タイムリープの能力者は孤独になりがちだ。なぜならそんな力誰も信じないからだ。

ただ、本作は違う。もう一人の主人公と言っても差し支えのない人物クロエの存在だ。

 

彼女は主人公マックスの親友である。内向的で大人しいマックスと違い、攻撃的で反抗的なパンク少女である。元々良い子だったが、作中の5年前時点に実の父ウィリアム・プライスを交通事故で亡くし、それから程なくしてマックスが街から引っ越してしまったことで親友をも失い、母ジョイス・プライスの再婚をきっかけに、義父であるデイビッド・マドセンと同じ屋根の下で生活することになるも、馬が合わず荒んでいく一方。

やさぐれていく最中レイチェルという新たな親友に出会い明るさを取り戻すも、作中の6ヶ月前に彼女は何故の失踪を遂げてしまうあまりにも運がないクロエ。

 

 そのような環境下で育ったクロエは自分のことを悲劇のヒロインとして見ている節があり、責任を他者になすりつけがちな一面をよく観る。

自分がくそったれな人生を送っているのは死んだ父親のせい、義理の父親のせい、自分を置いて引っ越したマックスのせい。

もちろんクロエにすべての非があるわけではない。彼女の身に降りかかるのは、どれも不可抗力の悲劇ばかりなのだから。しかし、それからの生き方を選択したのは彼女自身なのだ。

高校を中退したのも、レイチェルを探すための資金をクスリの売人から借りたのも、すべては自分で決めたこと。他にやりようがあったにも関わらず。そのことをひっくるめて他人に責任転嫁しているのは、彼女の未熟さゆえなのかもしれない。

自らの殻に閉じこもり周囲に責任をなすりつける。ゆえに作中ではマックスを救うことはせず救われるだけの、言わば庇護対象のような描写が多い。

また、マックスはクロエとの対面の時はカウンセラー的役割で接している事が多い

 

私は最初中々このクロエが好きにはなれなかった。

自己中だし、マックスの能力で遊びまくるし、すぐ不機嫌になる。マックスならもっと良い子と友達になれるよとまるで口うるさい父親になった気分だ。

ただ、物語を進めいく内に攻撃的なクロエの内情が分かってくる。死んでしまった父親、行方不明の親友。義理の父親への嫌悪感と遠くに行きたいと思う憧れ。

悲劇的な過去と、どうしようも出来ない残酷な現実。このまま何者にもなれずただただ歳を取るだけの未来。

そんなクロエの側面を段々と知っていく中で中盤で衝撃的な展開が待っている。

そう、マックスがクロエを想い死んでしまった父親を救うために過去に跳び、交通事故という悲惨な過去を消すことには成功したが、その後クロエ自身が交通事故で半身不随となってしまった事だ。

彼女の延命には多額の資金が必要だが、あろうことか保険が適用されずプライス家は生活費用すらまともに支払えない危機的状況に。

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それでも嫌な素振りすら見せず介護してくれる両親を見かね、マックスに自分を殺すよう懇願してくるクロエ。

あの元気だけが取り柄のようなクロエのあまりにも変わってしまった現状とここでクロエを殺すかどうかというあまりにも性格の悪し選択肢により、私の心は完全に重くなってしまった。確かにクロエが好きではなかったが、誰がここまでしろと言った。

結局マックスはクロエを救うため、父親が交通事故で死んでしまう現実を取ってしまう。

これを通して、クロエに人並の幸せを享受して欲しいというささやかな願いが私の中で生まれた。

 

選ぶという事と選ばないという事

 ゲームの冒頭と結末に登場する町を滅ぼす規模の竜巻も、マックスが時間を遡って人を救おうとした結果生じているという事が最後にわかる。まるでぐるぐる回りすぎたから渦が出来たかのように。人を救おうと頑張ったことが、結果として予測もしてなかった問題を引き起こす、その自責の念が結末近くでは非常に強くなっていく(ゲームが変わってしまったのではないかと思うぐらい難易度が高く長い「悪夢」のシーンがエピソード5にある)そこでは、様々な人物がマックスを責める。鬱状態の内面のようだ。

今までマックスが選んだ選択肢、人、物事。そういう倫理的罪悪感が襲ってくるのだ。

そして最後の最後に出てくる竜巻がマックスに最大の選択肢を与える。

即ちクロエを救うか、マックス達が住んでいるアルカディア・ベイを救うかの二択である。

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クロエはここで自分が犠牲になることを提案する。

マックスが幾度となく辛い体験をしながら、輝かしい未来を棒に振るってまでもクロエを救ってきたことを知ったからである。ようやく独りぼっちではないことを悟ったクロエは、初めて誰かを救う側に回ろうとしたのだ。しかし、今そんな事言われたら情が出てきて逆に助けたくなるだろというツッコミも出てくる。

 

 このゲームが残酷なのが、全員を救うというハッピーエンドは存在しない事である。

二択なのだ。

クロエとアルカディア・ベイを天秤にかけられる。アルカディア・ベイには友人や知人、救った人や救えなかった人、嫌いな人にこれから仲良くなれそうな人。写真を撮った美しい風景に建物。それらすべてを犠牲にしてクロエたった一人を救う…。命の重みが等価なら、より多くの人を救う選択が正解なのかもしれない。

 

ただプレイヤーは『Life Is Strange』を遊んでいく中でクロエという人物を深く知りすぎている。好きになっている。すべてに平等な神でもない限り、人間ひとりにとっての命の重みには差が生まれるものだ。だからこそ、選択に葛藤が生じる。

 

このゲームではクロエはマックスの唯一無二の親友なのだろう。

プレイヤーが介入できない、つまり選択の余地がない一本道の部分にその思いは示されている。例えば、クロエの実の父ウィリアムを救うためのタイムリープタイムリープ後にウィリアムとクロエのどちらかを救う・救わないの選択は一切行えず、結局クロエを救うために元の時間軸に戻ってしまう。また、黒幕であるジェファソンを捕まえ、日常ヒーローコンテストで見事優勝しサンフランシスコの展示会に参加した際も、クロエの電話でアルカディア・ベイに竜巻が訪れたと知るやタイムリープし、審査対象の写真を破り捨ててしまう。自分の輝かしい未来すら惜しまずに。

そんなマックスの親友であるクロエを見捨てるのか。ゲームは私に訴えかけます。

そしてプレイヤーが選ぶその選択肢に絶対的な正解なんてない。プレイヤーが物語を進めて感じた気持ちの上に選んだ答えが、唯一その人にとっての正解なのだから。

 

決断するという痛みと体験

このゲームには、映画やドラマのような演出がしばしば挟まれており、これを「プレイする映画」と言う人もいるようだ。こう書くと冒頭で言ったようにプレイ動画で済ませたら良いのではという疑問が出てくる。

確かにプレイ動画を見ているだけでも「意味分からんシーンもあったけど、全体的には結構面白かったな」程度の楽しみ方はできる。つまり「ストーリーや演出をなぞった」という体験ができる訳だ。

 

しかし、それはこのゲームの本質ではない。実際にプレイする事で、あなたはマックスとしてアルカディア・ベイを歩き回り、しょうもない落書きやチラシを発見し、どこか陰のある人や明るい人など様々な人々と交流を深め、その風景を写真に収め、そして運命を少しずつ変えてゆく。

その中で、私たちは気付く。

一つ一つ選んだ決断が、段々と重みを増していくことに。

マックスが親しく過ごしてきた人々が、まるで自身の友人のように感じられるかもしれない。最初はあんなにむかついたクロエが愛おしくなるかもしれない。

そんな感情移入しまくった世界で、客観的にみればこちらが正しいだろという選択にすら悩むようになり、救えなかった友人に本気で涙する。

 

 だからこそ、最後の最後で究極の決断を迫られた時、あなたは本気で悩むことになる。

 

 最後の決断含めて、一つ一つの選択こそがこのゲームの魅力であり、体験なのだ。

確かにその決断にはストレスが発生するし、苦しみも心の痛みもある。

だが、それら全てひっくるめて選択するからこそあなたかが選んだ決断が、かけがいのない唯一無二の体験になってくる。

それこそが、ゲームで遊ぶ事の楽しさではないかと思ってしまう。

 

アルカディア・ベイという美しい町を、マックスとクロエの関係を、実況動画という「観る」行為で済まさず、『自分の手で遊ぶ』ことで、今までにない体験が得られることを私は願っている。

最後までありがとうございました。

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